女であるということ

悪い女ほど、清楚な服が、よく似合う。

アフリカンマリーゴールド

お題「今日の花」

 

花束を貰って素直に感動出来る、私はまだそんな成熟した大人ではない。綺麗ではあるが、同時に持ち合わせている儚さにすぐに飽きてしまうのである。

しかしそんな私にも好きな花はある。それはカミツレだ。

私が繰り返し見ている図書館戦争という作品では、特別な花として登場する。そこで『苦難の中の力』というカミツレ花言葉がキーとなる場面がある。この花言葉の由来は、踏まれても更に丈夫に育つから。小さくて可愛らしい花の強い一面を知って、更に好きになった。

 

誕生石があるように、花にも誕生花というものが存在する。

調べてみると今日10月28日の誕生花は、アフリカンマリーゴールドというマリーゴールドの一種だ*1花言葉は『逆境を乗り越えて生きる』『絶望を乗り越えて生きる』*2

カミツレとは似ているようで違う花言葉は、まるで自分を鼓舞してくれているかのような力強さがある。

 

明日はどんな花が誰の心に寄り添うのだろう。

 

 

 

 

 

退化なのかもしれない

お題「これって私だけ?」

 

今日からお題の記事も書いていきます。ますますウェブログっぽくなってきましたね。

 

 

上京して早1ヶ月。車社会の田舎から電車の申し子、とまでは未だなれず、きちんとマップや乗り換えのアプリを駆使して日々を過ごしている。

車の運転は毎日しないと鈍るし数ヶ月経ったらもうペーパードライバーと化してしまうのだと、そうなってしまった地元のネイリストさんが言っていた。

そもそも外に出掛けることも運転も好きではないけれど、助手席でうっかり微睡んでしまう時間はなぜだかとても好きだ。そしてそんな時間が訪れるのは決まって夏だった。

座席を運転席よりも少し後ろに倒して橙色に染まりつつある空を薄目で確認する。私はエアコンより窓派だったので、顔に風がかかるかかからないかくらい窓を開けて夏の匂いを感じた。

それを経験から想像するのと同時に、晴天の中で窓を全開にして、そこから顔や手先を出して夏という季節を全身で感じていた小学生の頃のことも思い出した。*1

そういえば、あの頃はどれだけ風が当たってこようと平気だったのに、今はあの中で息が出来ないのがとても怖い。高校生の時に久しぶりにそれをして、内から湧き上がる恐怖に自分自身驚いた。

 

身近なところで言えば、ドライヤーを前から当てられない。

これはジャニーズのグループ A.B.C-Z河合郁人くんも、1stシングルCD「Moonlight walker」の特典DVDの雑誌の取材で答えていた。大共感である。

最近のドライヤーには顔に風を当てて小顔効果を期待出来る機能がある。私の使っているPanasonicナノケアというドライヤーにもその機能がついているが、一度使用したことがあるかないかだ。今使用していないということは、きっとその弱めの風も苦手だったのだろう。

昔は知らぬが故に無謀で度胸もあったが、なぜだか当時の自分に負けた気になってしまうのは私だけだろうか。良く言えば大人になったという変化なのだろうか。

 

 

*1:危険な行為なので止めた方がいい。

いつの間にか似合う服だけを選ぶようになった

いつからか好きな物を着るのではなく、似合う服を着るようになった。ショップで服を手に取り、無意識に「これ私着てそう」と思う。そして私の安物のチェストの中にはそういう服が溢れている。

元来私は可愛いものが好きだ。中学の頃はLIZ LISAが好きで、大抵自分が可愛いと思った服を買ってもらって着ていたし、今でもdeicyやEATMEが大好きだ。

しかしこれらの可愛い服は、肌色や身長や顔の作りやらなんやら、まあ端的に言って似合わないのである。雑誌LARMEを買うことすら身の丈に合わないと思っており、今ではSNSで表紙を眺めるだけになっている(表紙だけでもモデルさんは可愛くてキュンキュンするのだが)。

そんな私の唯一の救いは、クール系も好きというところだ。これは着られる。なぜなら冒頭に書いたように「これ私着てそう」な服だからだ。

20代になり、街を歩く女性の見た目と服装がミスマッチなのを見ると「好きな服を着ていて凄い!」と思うようになった。それは私が出来ないことだからこその羨望であり、私のように見た目のイメージに迎合しているたくさんの人の中で、一際キラキラしているように見えた。

つまり何が言いたいかと言うと、好きな物を着るだけで他人からはどうか知らないが自分の気分は上がる。今よりも歳を重ねたら出来ないこともあるので、残りの人生で一番若い今日をもっと楽しんだ方がいいんじゃないかという提案だ。

私は夢に捨てられたい

最近何時に寝ても朝6時前後に目が覚めて、なんとも言えない嫌な気持ちになる。結局二度寝かますんだが。

寝ている間、夢は見ない。

ここ1ヶ月夢という夢を見た記憶が無い。人間は夢を毎晩見ていて、起きた時にそれを覚えているかどうかだという話もどこかで耳にしたことはあるが、それは自分の記憶力ではどうしようもない。

 

近況のようなものを書いたが、今回は上記のような寝ている時に見るものではなく、将来なりたいものやしたいことの方の夢について書こうと思う。

物心ついた時から「将来の夢は?」という問いを投げかけられ、進学と同時にそれは体に張り付いて離れなかったりする。

そういえば、私が幼い頃になりたかったものはなんだろう。みなさんは覚えているだろうか?卒業アルバムに書き記したものではなく、みなさんの記憶の中にある夢はなんだったのか。

結局私の記憶は曖昧で、お花屋になりたかったのかはたまたプリキュアになって友達を救いたかったのかは覚えていない。小学校の卒業アルバムから掬うとすれば、その当時の夢は未だに変わっていないし、進学時に諦めてから何も始まっていない。

実現に向け動き始めて、そして挫折をすれば夢を諦められるだろうか。いや、決してそんな事はない。挫折しても立ち上がる人はいるし、夢を叶える人だっている。いつでも追うのを辞められるという、続ければ終わりの無い怖さを大抵の人は知っているのだろうか。

私は同じ場所で足踏みをしているだけの人間であるが、いつも夢は私に寄り添っていて、それと歩くのも捨てていくのも私の意思でしかないと知っている。

早く捨ててしまえたなら一端の人間になれたのだろうかと思う夜、私は今日も夢に捨てられたい。

眠れない夜には。

眠れない夜は、今日の後悔が溢れ出す。

同僚に気の利いた返事をしていれば、あの時の動き方は自分本位だったんじゃないか、誤解を招く言い方をしてしまったんじゃないか。

小さな振り返りが積もり積もって今日の後悔になる。大人になったら誰も慰めてくれないんだよな。

眠れない夜に子守唄を歌ってくれるような人もいないし、そもそも子守唄って歳でもないくらいには大人になってしまった。

いや、年齢だけ重ねてしまっただけで、本質的には大人になっていない気がする。今だって大人になりたくないし、子どもの頃に戻りたい。永遠のモラトリアムに陥っているのだ。

この先は自分の意思でいつだって大人になれることを知っている。その代わりに、一度大人になってしまえば子どもに戻ることは出来ないことも知っている。

このモラトリアムの時間を終えれば、また外を駆け回って遊んだあの日の夜のように、朝が来るのが楽しみになるのだろうか。

メトロ

最近JUJUのメトロの歌詞に唆されて泣いています。否、自分の心の違和感と合致して泣いています。

 

『簡単に変わってく人が一番苦手なくせに 簡単に変われない自分が誰より一番嫌い』

 

サビの歌詞なんて、まるで私のことみたい。そんな人は日本中、いや世界中にごまんといるのではないでしょうか。誰かの格言でもありました。『非凡を願うことは平凡』だと。

 

酒を飲みながら愛が欲しいとか言っていましたが、本当に欲しいのは愛ではなく幸せなんです。可愛いだとか好きだとかそういう言葉を貰い、例えば整形して異性にチヤホヤされる事で胸のつかえが取れるのかと言えばそうではありません。

幸せという曖昧な物で一時は心の隙間を埋められとしても、人間という生き物は強欲なので、手に入れた物を振り返る機会は少なく、更に上の幸福を求めるのです。それが分かっていながら幸福を欲し続け、満足することなく進んで行くのです。

 

夜が明けたら、また日常に戻ります。アルコールなんて、上記のような事を書く手助け程度にしかなりません。

それでも私は、自分の言いたいことを言えない日常から脱却する数少ない手段の一つなのです。

もちろん飲みすぎは良くないです。起きたら顔パンパンになるのでお気を付けて。

『おんなのこきらい』

つい先日、自我が芽生えて初めて好きになった人が結婚したらしい。約22年の人生、やっと人を好きになるということを理解出来る入口に立てたと思ったが、その自覚は一気に踏み潰された。

人伝いに聞いた結婚報告が事実か確認したら、彼は私に報告するのを忘れていたらしい。極めつけには「結婚願望無いの?」だって。全然無いけど、無いけどさ、やっぱり自己カテゴリー《パンピ》に属している人と、恋愛感情でちょっと好きな人から言われるのとでは全然違う。私のガラスのハートを一瞬で打ち砕いたこの一連の流れは、仕事開始2時間の私の泣きたさとそれに伴う帰りたさを助長させた。

よく最後まで仕事してきたよ、頑張ったね私!「自分よく頑張りました」とか思えた事がないし、そう言うことが気持ち悪いとすら思っていたのに、さすがにこの日は自分を褒めた。そしていつも1人では飲まない酒を適当に呑んだ。

 

タイトルにしたおんなのこきらい - 映画ならKINENOTEは映画の名前だ。主演森川葵、私の大好きな女優。

兎に角上記のようなことが起こって、何故かこの映画が無性に見たくなった。もうなんだろう、みんな死ねばいいのにって思う。共感というか、主人公キリコが歩むクソみたいな展開と混ざり合いたい。そうすればこんな気持ちも昇華出来る気がする。

『おんなのこきらい』を好きな人に女が多いのは、映画としての批評云々より おんなのこ としての言い表せない複雑な想いや感情は、おんなのこ しか理解出来ないからだ。

 

自分の中の一番の人。その人の一番になりたいと思うのは当たり前でしょう?

今後自分の中の一番の人が変わったとしても、その人が私を一番にしてくれることはないのだろうけど。私がどれだけ細くなっても、可愛くなっても。